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1711_Jordan

Created by K. Ishikawa

文化や風物@ヨルダン

掲載写真21枚.閲覧時のデータ通信量の節約のため,写真は原画の画素を縦横とも約1/8から1/6に縮減( 800 x 540 pixels)して掲載した.

死海: 広さ50km x 15km,水深200m,海抜 マイナス430m(地球の地表で最も低い出口のない塩湖)。塩分約30%(塩分量は230g/Lから270g/L、水底では428g/L)。最近の調査で,淡水が湧いているクレーターで細菌が生息していることがわかった。・・・事典より

体感: 体が沈まない。水がグッと体を押し上げている感じがある。水底には厚さ10cmくらいの塩の析出層ができている。小さな傷もヒリヒリする塩づけ状態。沖への離岸流がある。 死海から上がっても体がホカホカと温かく感じた。死海の高濃度の塩化マグネシウムには血液循環を良くする働きがあるとのこと。

ヨルダン側より死海対岸のイスラエルの村を望む。緑のない荒涼とした風景が広がる。

ヨルダン側のネボ山より死海や西岸地区・エリコを望む。ネボ山でモーセは神から授かった「約束の地」を見下ろしながら息を引き取ったと言われる。

このネボ山の中腹で車がエンジンストップしてしまった。原因はエンジンのベルト切れとのこと。

修理の間,暇つぶしに上記の写真手前の斜面を彷徨き,下記の化石を入手した。

この貝または椀足類の化石は,蛤よりは厚みがあり,半透明の結晶が付着していた。太古には,まだ貝が住める死海がこの山腹まであった証か。

ペトラの町の夜明け

ペトラの町の朝,店主がコーヒーを入れる器を洗っていた。店にアルコール飲料はない。

ペトラの遺跡の入り口付近 下:バーブ・アッシーク・トリクリニウム,上:オベリスクの墓

ペトラは紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の都市として栄え,南アラビアと地中海を結ぶ香料の道を移動するキャラバン隊の中継基地であった。

馬車で遺跡に向かう旅人

ペトラの遺跡に至るシーク,長さ1.2km,高さ60m~100m,馬の足音が反響する。谷底の人が小さく見える。

シーク脇の壁に掘られた駱駝のキャラバン像。人やラクダたちは長年の砂塵と風雨で劣化が進んでいる。

エル・ハズネ(宝物殿,ナバタイの王アレタス4世の葬祭殿とも言われている)。狭いシークの先に巨大な 磨崖遺跡が唐突に出現する。

エル・ハズネ:岩山の上から下へ掘削,高さ45m,建物の地下にも構造物がある。映画「インディージョーンズ 最後の聖戦」の舞台。

エル・ハズネのパノラマ.

ファサード.多くは豪族たちの墓

サンドボトル職人

駱駝使い

ロバ使い

エド・ディル(修道院)の遺跡は800段の岩の階段を昇ったところにある。山と太陽の神デュシャラを祭ったものであり, 後に修道院とされた.当時,デュシャラはペトラの主神であった.

エド・ディル:高さ40m 幅28mの巨大な石窟

エド・ディルを羊と展望。

壺の墓,上層部から下層までナバティア,ローマ,イスラムなどの各時代に造営・改装が繰り返された。

ナバタイは強かにローマの侵攻から王国を守った.ナバティアの衰退の主因は地震とされる.平和・平安を意味する「サラーム」という挨拶言葉が岩に刻まれており,当時の人々の願いを推察できた.

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