掲載写真56枚: Sony RX100M5Aで撮影.閲覧時のデータ通信量の節約のため,写真は原画の総画素数を1/5に縮減( 800 x 540 pixels)して掲載した.
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アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡地は、二度と繰り返してはならない人類の「負の遺産」として、1979年に世界遺産に登録された.
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の入場券.時間指定あり.
掲載写真の自動再生/順不同/56枚
アウシュヴィッツ第1強制収容所へ向かう回廊
「働けば自由になる」と掲げられたアウシュヴィッツ第一強制収容所のアーチ門
故ローマ教皇フランシスコは2016年7月にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪問した.「働けば自由になる」とドイツ語で掲げられた門を徒歩でくぐり、椅子に腰かけて約15分間、黙とう.アウシュビッツの生存者12人と面会し、一人一人の手を取って言葉をかけた.
アウシュヴィッツ第1強制収容所の電気柵、門
アウシュヴィッツ第1強制収容所電気柵
「過去を忘れる者は、それを繰り返す運命にある」 哲学者ジョージ・サンタヤーナ
これは、歴史から学ぶことの重要性を強調しており、過去の過ちや経験から教訓を得る必要性を説いている.
前掲の写真をGoogle翻訳で日本語にして提示
公式ガイドを務めている中谷剛さん
「価値無し」に選別された収容者達(老人、病人、妊婦、子供、その引率教師も)はそのままガス室に送られ殺害.暴動を起こさせないために、偽物の切符を用意し「ここで体を洗浄して別の場所に連れて行く」と言われ実際はガス室に連れて行かれた.
強制収容所の構造模型
ガス室で使われたツィクロンB.ツィクロンBは有効成分にシアン化水素(青酸化合物)などを含む殺虫剤.動物にとってシアン化水素が致死的であることは広く知られていた.
ガス室で使われたツィクロンBの空き缶の山.
犠牲者の衣類
犠牲者の靴.
多くの見学者.就学旅行の若者.
強制収容所の監視塔と有刺鉄線
アウシュヴィッツ強制収容所の「死の壁」.囚人が銃殺刑に処された場所
集団絞首刑台
アウシュヴィッツ強制収容所は、第二次世界大戦中およびホロコースト中にナチス・ドイツが占領下のポーランドで運営した40以上の強制収容所および絶滅収容所の複合体.
アウシュヴィッツは、当初ポーランドの兵舎を転用して捕虜収容所として設立され、後に他の収容所も建設された。1942年から1944年後半にかけて、ドイツ占領下のヨーロッパ全域からユダヤ人が貨物列車で搬送され多くがガス室に送られた。
ガス室の入り口
ガス室の内部.天井からツィクロンBを噴霧し、連れてこられたユダヤ人やポーランド人,ソ連軍捕虜などが大量に殺害された.
ガス室の内部
すぐ隣の部屋の焼却場は1940年~43年まで使用されていた.
強制収容所の敷地内にある監視塔と建物
アウシュヴィッツは、ポーランド南西部のオシフィエンチムに位置し、「アウシュヴィッツ第一収容所」「アウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ)」「アウシュヴィッツ第三収容所(モノヴィッツ)」の3つの主要な収容所で構成されている。
特にこのビルケナウは絶滅収容所として機能し、ヨーロッパ全土からユダヤ人をはじめとする多くの人々が強制移送され、ガス室などで虐殺された.少なくとも110万人のユダヤ人、そしてポーランド人、ロマ族、ソ連軍捕虜など、数万人もの人々がアウシュヴィッツで犠牲になったとされている.
強制収容所の入り口
アウシュヴィッツは,1945年1月27日に旧ソビエト軍によって解放され、現在は負の遺産として博物館として公開されている.
ドイツ軍の馬小屋を改造した囚人生活バラック
ヨーロッパ各地からユダヤ人などがこの収容所に移送される際に使用された貨車.
ウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の全体構成を示す案内板.第二次世界大戦中にナチス・ドイツが建設した最大規模の強制収容所であり、ホロコーストの中心的な場所.
過去を忘れる者は、それを繰り返す運命にある
哲学者ジョージ・サンタヤーナ
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡地は、二度と繰り返してはならない人類の「負の遺産」として、1979年に世界遺産に登録された.