2510_Bosnia and Herzegovina
Created by K. Ishikawa
Created by K. Ishikawa
掲載写真:41 枚. 主にSony RX100M5aで撮影.閲覧時のWebデータ通信量の節約のため,写真は原画の画素を縦横とも約1/6から1/8に縮減して掲載( 800 x 540 pixels)した.
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
ヨーロッパの「火薬庫」と呼ばれた歴史を持ちながら、多様な文化と強靭な生命力が息づく国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。
首都サラエボでは、「ヨーロッパのエルサレム」と称されるように、モスク、教会、シナゴーグが混在する旧市街を散策し、その独特な文化の交差点を目撃した。1984年にユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)の首都サラエボで開催された「サラエボオリンピック」後の「ボスニア紛争」における悲劇をはじめ,街の至る所に残る戦争の傷跡と、明るく生きる人々の対照的な姿があった.
そして、ノーベル文学賞作家イヴォ・アンドリッチの小説で知られるヴィシェグラードへ。世界遺産「ソコルル・メフメト・パシャ橋」が、悠久のドリナ川に架かる姿は圧巻だ。この橋が持つ歴史の重みと、物語の世界に迷い込んだような感動を写真に収めた。(AI:Google Geminiによる生成 )
掲載写真の自動再生/順不同
ディナル・アルプス山脈@ボスニア・ヘルツェゴビナ
アドリア海沿岸を北西から南東に走る山脈の総称.スロベニア南部、クロアチアの大部分、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビアの一部にまたがっている.
ヤブラニツァ湖@ボスニア・ヘルツェゴビナ
ヤブラニツァ湖は、ボスニア・ヘルツェゴビナのネレトヴァ川にあるダムによって形成された人造湖.
ネレトヴァ川@ヤブラニツァ市,ボスニア・ヘルツェゴビナ
ネレトヴァ川は、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアを流れる主要な川.
95(ガソリン)の価格は,2.41兌換マルク/L x 91円 = 219.3円/Lで日本より高い.
羊の丸焼き
串に刺した羊を何時間もかけてじっくりと焼き上げるのが伝統的な調理法だ.水車を使って回転させている.
スタラ・チュプリヤ(Stara Ćuprija)と呼ばれる石橋@コニツ,ボスニア・ヘルツェゴビナ
路面電車@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ
路面電車「シュタッドラー・タンゴNF3」@サラエボ.
黄色と灰色のツートンカラーが特徴で,ボンバルディア・トランスポーテーション(現アルストム)が製造した「フレキシティ」シリーズに属する車両で、高速性能を重視している.
路面電車「シュタッドラー・タンゴNF3」@サラエボ.
面電車@サラエボ.
面電車@サラエボ.
宿泊したラドン・プラザ・ホテル(Radon Plaza Hotel)@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ
トンネル博物館@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
1984年冬季オリンピックとボスニア紛争に関する解説板@首都サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
サラエボは、1984年に旧ユーゴスラビアの一部として、第14回冬季オリンピックを開催した.オリンピックからわずか10年足らず後の1992年から1995年にかけて、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発し、サラエボは4年近くにわたる包囲攻撃を受けた。
画像に写っている解説板には、オリンピック開催時のスキー場マップと、紛争中に街が包囲された様子が描かれている.紛争後、かつてのオリンピック施設は多くが廃墟と化した.現在も街にはオリンピックの遺産と戦争の傷跡が混在している.
「希望のトンネル」(サラエボ・トンネル)@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
希望のトンネルは、ボスニア紛争中のサラエボ包囲戦(1992年〜1995年)の際に建設された.空港の滑走路の地下を掘りぬいた長さ約800メートル、幅1メートル、高さ1.6メートルのこのトンネルは、包囲されたサラエボ市と外部世界を結ぶ唯一の生命線だった.食料、医薬品、人道支援物資の輸送や、人々の避難に重要な役割を果たした。
現在は、サラエボ包囲戦の歴史を伝えるトンネル博物館として公開されている.
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関連リンク:サラエヴォ市民の命をつないだ「希望のトンネル」|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ民族紛争を振り返る.
トンネル博物館@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
ボスニア紛争中のサラエボ包囲戦(1992年〜1995年)の際に受けた民家の弾痕.
トンネル博物館@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
ボスニア紛争中のサラエボ包囲戦(1992年〜1995年)の際に受けた民家の弾痕.
トンネル博物館@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
ボスニア紛争中のサラエボ包囲戦(1992年〜1995年)の際に受けた民家の弾痕の写真.
トンネル博物館@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
ボスニア紛争中のサラエボ包囲戦(1992年〜1995年)の際に使われた
トンネル博物館@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
トンネル博物館@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
被弾の跡を赤色で示している.
デイトン合意に基づくボスニア・ヘルツェゴビナの地図と行政構造@トンネル博物館,サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
1995年から2005年までのボスニア・ヘルツェゴビナの行政構造を示している.
デイトン合意では、ボスニア・ヘルツェゴビナを2つの連邦構成体、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国、および両連邦のコンドミニアムであるブルチコ行政区に分割した.地図には、サラエボ、バニャ・ルカ、モスタル、トゥズラなどの主要都市が示されています。
弾痕が残っているビル@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
ミリャツカ川にオスマン帝国時代にかけれれたラテン橋@首都サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ
1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が橋の近くで暗殺された「サラエボ事件」の現場として知られている.この事件が第一次世界大戦の引き金となった.ユーゴスラビア時代には、暗殺犯の名にちなんで「プリンツィプ橋」と呼ばれていた.
暗殺される直前に撮影されたオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻が写った写真@サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビ
サラエボ事件は、第一次世界大戦の引き金となった事件で,オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し大戦が勃発した.
この「Ulica Zelenih Beretki」通りでセルビアの民族主義者によって、大公夫妻が暗殺された.
大公夫妻が乗っていた(同型の)車を前に,教師の話を熱心に聞く子供たち.写真右側には,サラエボにおけるガブリロ・プリンツィプ暗殺現場を記念する銘板が見える.
銘板の訳:1914年6月28日、この場所でガヴリル・プリンチプはオーストリアハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナンドとその妻ソフィアを暗殺した。
「セビリ」と呼ばれるオスマン様式の噴水@旧市街バシュチャルシヤ広場,サラエボ,ボスニア・ヘルツェゴビナ.
オスマン帝国時代に建設された木造の建築物で、サラエボの歴史と文化を象徴する重要な観光スポットの一つだ.
バシチャルシヤ(Baščaršija)という歴史的なバザール(市場)@サラエヴォ,ボスニア・ヘルツェゴビナ
バシチャルシヤバザール@サラエヴォ
バシチャルシヤバザール@サラエヴォ
バシチャルシヤバザール@サラエヴォ
バシチャルシヤバザール@サラエヴォ
バシチャルシヤバザール@サラエヴォ
バシチャルシヤバザール@サラエヴォ
ソコルル・メフメト・パシャ橋@ヴィシェグラード,ボスニア・ヘルツェゴビナ
ドリナ川にかかるこの橋は、16世紀にオスマン帝国の大宰相ソコルル・メフメト・パシャの命により建設された.全長約180メートルの石造りの巨大な橋で、11のアーチで構成されています。2007年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。
ソコルル・メフメト・パシャ橋@ヴィシェグラード,ボスニア・ヘルツェゴビナ
ソコルル・メフメト・パシャ橋@ヴィシェグラード,ボスニア・ヘルツェゴビナ